社長挨拶

代表取締役

当社ホームページにお越しいただきまして、誠にありがとうございます。代表取締役の鈴木哲郎ともうします。

ここでありきたりの社長挨拶をしてもなにもおもしろくないと思いますので、僕自身についての考え方や価値観についてお話しをさせていただきたいと思います。僕は音楽がとても好きで、より深くアルバムを楽しむために、そのミュージシャンの「人となり」や、そのアルバムができた「背景」を調べたりします。

ですから、「鈴木哲郎」という人間がどういう考え方のもと、どういう価値観をもって仕事をする人間なのかがわかれば、当社がどのような会社なのかより深く理解していただけると思います(今や世界一の価値を誇るAppleという会社も、スティーブ・ジョブズがどういう人だったのかを知れば、なるほど理解できますよね)。

僕はこうみえていっとき教師になろうと教員免許を取得したことがあります。なぜなら、学校の友達連中と一緒にいるのが好きだったからです。とくに小学校と中学の頃が好きでした。気の合うクラス仲間、部活仲間とワイワイバカ笑いしていた頃です。あの時は不思議と、つまらない単調な毎日でも楽しく過ごせていました。いまだに仕事中でも「もう一度、楽しかったあの頃に戻れたらなぁ…」と、ふと、なんとも胸がキュンとなる切ない気持ちになります。

なので、ある時こう思ったのです。

「そっか。自分は社長なんだから、どうせなら職場も学校みたくすればもっとオモロクなるじゃん!」

というわけで、話は少しそれますが、現在当社は気の合う学校のクラス仲間や部活仲間のような人を募集中です!条件は僕と考え方や価値観が合う人!僕と考え方や価値観が合う人は是非ぜひ、共に創っていきましょう!この指とまれ!ご連絡ください!!

と、話は戻ります。

まずは簡単な自己紹介を。

1985年生まれ。音楽の専門学校卒業後、母の経営するTHSに入社。その後、社会人をしながら英語を学ぶべく三浪を経て早稲田大学教育学部英語英文学科へ入学。在学中、もともと教えることが好きだったこともあり、独学で培った勉強法を武器に早稲田アカデミーで英語講師として3年半勤務。英語の教職免許を取得し、中学英語教師になるべく就活中、母が体調を崩したためTHSの取締役に就任。第1種電気工事士の資格を取得。

趣味:映画鑑賞、ギター(Blues、Jazz)、読書、温泉、サウナ、キャンプ

好きなミュージシャン:Derek Trucks、Bill Evans、Hound Dog Taylor

一番心に残る映画:「生きる」、「レナードの朝」、「ショーシャンクの空に」「28日後」

好きな小説家:江戸川乱歩

そもそも「なぜ働くのか」

人間は唯一、「生きる目的」を持つことができる動物です。つまり、「何のために生きるのか」という哲学を持つことができるのです。他の動物は、生きることそのものを目的にしています。しかし、人間も哲学を持てば「生きること」=「手段」とすることができますが、持たなければ他の動物と同じように「生きること」=「目的」にしてしまいます。

「生きること」=「目的」にした場合、人生は「苦しみ」に満ちたものとなりますが、「生きること」=「手段」にした場合、人生は「楽しみ」に満ちたものとなります。

つまり、生きる目的を持たなければ目標設定は低くなり、「志」のない生き方となります。教育で最も難しいのは、本人の目標設定を高めることです。なぜなら、どこまで高い目標を持たせられるかは、「生き方(=考え方)」の問題になってくるからです。

肉食動物は、寝ている以外の大半を獲物を探す時間に費やします。十分に獲物をゲットできれば繁殖していきます。その増加は、常に獲物を探し続ける必要がある状態でストップする。常に飢える状態まで増え続けるので、決して満たされることはありません。

人間もかつては、これと同じような生き方をしてきました。しかし、大きな転機がきます。家畜を飼ったり、農耕を行うことで、食料を備蓄できるようになったのです。

そして、余暇が生まれ、さまざまな「仕事」ができるようになりました。

その「仕事」に目標を見いだせるかどうかが、人生に「哲学」を持てるか、さらには人生を楽しめるかにかかってきます。目的を見出せない限り、他の動物と同じように人生=「苦しいもの」となります。

「苦しいもの」となってしまった人は、より効率的な生き方を選択します。頑張らなくて済むのであれば、頑張ろうとはしません。すきあらば安きへ。今が良ければそれでいいという思考に堕落していくのです。当然、目標設定は長期のものではなく短期のものとなります。誰かに貢献する(=service:サービス)という利他的発想は持てず、自分が生きることだけで精一杯となります。結局、利己的な、自分の生活が維持できる最低限の生き方に陥っていくのです。

「なぜ働くのか?」、その真の意義を見出すことができるかどうかが、幸福になれるかどうかと考えても過言ではありません。教育の本質は、考え方(=生き方)を教えることです。

考え方を教えることは至難です。相手の考え方を否定することにもなるからです。そのため、世間一般では無難で表面的な技術的なことを教え、会社は技術研修のみを行うようになるのです。

しかし、歴史から学べばなにごとも「技」より「心」が先です。本気で部下と向き合い、ぶつかり合い、その結果として、「こんな会社は自分には合わない」といって辞める社員がいたなら仕方がありません。社員とはお互い「同じ志を持つ仲間」でなくてはならないと思うからです。そうした関係を築けずに働くことほど不幸なことはないと、思いませんか?私はこれまで会社を辞めていった人を何人も見てきていますが、その全員が、例外なく考え方(価値観)が「僕たち」と合いませんでした。

真面目に全国大会を目指して練習している野球チームに、趣味程度に楽しむ野球が目当ての人が入部してきたらどうなるでしょう。試合はおろか、日頃の練習すらまともにできません。スポーツも勉強も、自分にあった組織に入ることが上達の近道と言われているのは、まさに理にかなっています。会社も同じです。

なによりも大切なのは「考え方」

ともに仕事をするにあたり重要なのは「あなたはどう考えるか」ということ。あなたの考え方が僕たちと同じようであれば、きっと波長も合い、お互い切磋琢磨しあえる仲になれます。

そもそも、どう考えるかが人を作ります。考え方こそが、人の運命を決めるのです。僕はこれまで仕事をしてきて、このことを理解していない人があまりにも多いと痛感しています。エマソンは「人はいつも考えているものになる」と言っていますが、確かに、冷静に考えるとそれ以外にはなりようがありませんよね(笑)

ローマ時代のマルクスという哲学者は「人生は、心の思いが作る」と言っています。つまり、楽しいことを考えれば幸せに。惨めなことを考えれば不幸に。怖いことを考えれば怖がりに。病的なことを考えれば病気に。失敗すると考えれば間違いなく失敗します。自己憐憫になれば孤独になります。ある牧師はこうも言っています。「あなたは、自分がそうだと思っているような人間ではない。自分が思っているそのものです」と。

ただ楽観的に考えれば万事うまくいくなど、僕はみじんも考えてません。残念ながら人生はそう単純ではないし、世の中そうあまくはないということを、経営を通して誰よりも理解しています。僕が言いたいのは物事をネガティブに考えるのではなく、ポジティブに考えるようにすることが大切ということです。気にかけることはOK。でも、思い悩んではいけないのです。気にかけるということは、問題がなにかわかった上で、それに対処するための手段を冷静に実行すること。一方、思い悩むことは感情的に妄想し、無意味な行動を繰り返すことです。

なりたい自分を考える

「なりたい自分」を考えることは、仕事を楽しんでやる一番効果的な方法です。
あなたは、仕事で叶えたい夢を持っていますか?僕はこの会社を、退屈な勉強も、気の合う仲間や、部活のような楽しい行事があるからこそ楽しくなってしまう、そんな学校のようにしたいという夢があります。経営理念にある「共に教え、共に学び、共に成長する」というのは、実は学校のようにクラスみんなで成長したいという想いからきています。

こうなりたいという夢は、私たちにパワーを与えてくれます。これといった夢もなく仕事をしていると、次第にやる気がなくなっていくことでしょう。それは、魂のバッテリーが切れかかっているというサインです。夢こそ、元気の源。あなた自身を成長させる原動力になるものなのです。

夢を持てるか持てないかは、人間力が必要

終身雇用の時代は終わったと言われる現代では、人間力が求められます。形に振り回されるのではなく、どんな状況でも行き抜ける力です。仕事でのやりがいや感動は、インスタントに得られるものではないし、与えられるものでもない。仕事を通じていろいろな経験を積み、苦労し、それではじめて感動は得られるものです。「これでお客様が喜んでくれるんじゃないか」と思って、その商品やサービスを世に出す。それにお客様の反応があって、「あ、いい声が返ってきた」と嬉しく思う。そうやって繰り返していく中で、より仕事への意欲も上がっていく。そういう経験なくして、やりがいや感動を感じていたら、それはただの自己満足で妄想かもしれません。

人と比べる人は世界一「不幸な人」です

「僕らの世代は」とか「どこどこの会社の人は」と、やたらと他と比べる人がいますが、人と比べることは意味のないこと。人と比べる人は、この世で最も不幸な人です。この世で最も不幸な人は、自分と人を比べる人です。会社を去っていった多くの人が、やたら比べ上手。なので、僕たちの会社ではお給料も賞与も人事も「上司の気分」ではなく、完全評価制度です。なので、いい意味で他と比べることはありません。あなたの実力、つまり自分の言動に対する「結果」に対してコミットする。結果が良ければ、給料も賞与もついてくる。比べるのは他人ではなく、過去の自分。だから、自分の努力次第で良くも悪くもなんとでもなります。これが当社の強み、仕組みの一つです

今はウソの時代

今はウソの時代です。フェイクの時代。フェイクニュースに仮想通貨、インスタグラムは「いいね!」をもらうために作り込んだフェイクの世界です。政治家は自分の都合を並べ立てるし、大人の言うことも嘘ばかり。若い人にとって、なにを信じていいのかわからない時代です。こんな世の中に生きていたら、ムカつくこともあるし、理不尽に感じることも多いのは当たり前です。「何のために生きてるんだろう」と思うことだってあると思います。私も同じでした。若い頃、あなたと同じ思いを抱いて生きていました。そこで、苦しんだ末に本当の生き方を突き詰めた結果が、「経営」でした。経営を学んだ僕は、これしかないと思いました。

若い人たちにはYoutuberやアイドルが憧れの職業かもしれません。けれど経営も、気の合う仲間と共に「創っていく」おもしろさがわかれば、実はとてもオモシロイものです。そもそも、人生の大半は仕事をしているんだから、その仕事がクリエイティブなものになったら相当ワクワクするものだと思いませんか?

ロールプレイングゲームも、最初はあまり面白くない。だんだん仕組みが分かってきて、レベルが上がり世界が広がってくるとめちゃくちゃワクワクしてきますよね?経営も、本質がわかってくるととてもワクワクするオモシロイものです。

今、当社に残っている仲間たちはみんなそこをわかっています。世間の多くの人が、これからオモシロクなるというところで、やめてしまうのです。ドラクエもFFも、転職できたりマテリアが手に入るようになってからがオモシロくなるのに。その直前でゲームをやめてしまう。そのゲームを知ってる人からしたら、「えええ!?こんないいところでやめちゃうの!!?」って、なりますよね?会社も同じです。

そもそも他人との比較でしが幸せを実感できないのは、自ら人生を寂しいものにしていることに気づかないことです。

では、なぜ僕が経営の意味というか、人生の意味というものを知りえたのかと言えば、それはきれいごとではなく、僕自身の苦難多き人生より、僕自身が生きることへの疑問を抱き、苦難し、もがいたからです。そして人生の意味を求道し、さいわい僕自身逃げたくても逃げられない経営というものに、僕自身の心もいのちも救われた経験があるからです。僕は、経営を通して自分自身が得た真実や財産を、世の人にお伝えし、恩返ししているにすぎないのです。

まず、経営について考えるまえに、世の中の人は「仕事」について大きな誤解をしています。それはまず、「天職」と「適職」を混同しているということです。

仕事を幸せに感じることが近道、好きこそ物の上手なれ

「仕事」について考えるとき、自分に合う仕事には「天職」と「適職」があるということ。「適職」とは「お金を得ることができる職業」。たとえば、「自分は手先が器用」という人が職人になって、エアコンを工事する職に就いた場合、それは「適職」になるでしょう。ただし、その仕事をすることに、100%の幸せを感じれるかどうかは別問題です。人にお金を払ってもらえるだけの仕事が確実にできるなら、それは「適職」ということです。

一方、「天職」はお金とは無縁です。自分が心から満足できる仕事です。たとえば、三度の飯より好きというような、時間を忘れて没頭できることです。そこでは自分の理想を追求し、お金にならなくてもその仕事を通して人の役にたつようなことです。それが「天職」です。

世の中の多くの人が「あこがれの天職」に就き、その仕事でバリバリ稼いで生活できたらどんなに幸せかと思っています。当社を辞めていった人たちもそんな「天職」を求めて「転職」していきました。けれど、すこし厳しい言い方かもしれませんが、世の中、天職だけで幸せにはなれません。なぜなら、天職だけでは食べていけないからです。

そもそも、自転車のように「天職」と「適職」の両輪が必要です。「適職」だけだと、お金があっても、心が満たされません。なんとなく欲求不満な生活になってしまう。一方、「天職」だけでは楽しくても、食べていくためのお金が得られません。同じ大きさの車輪が回るから前進するように、どちらかが大きすぎてもダメで、どちらかが小さいとクルクル回って未来へ前進できません。

まず、あなたにとって「適職」はなにで、「天職」はなにか、じっくりと考えないといけません。その二つのバランスがうまく取れている人は、「仕事に幸せを感じることのできる人」です。だから、当社では夢を持つ人や、夢を追いかけている人を応援しています。だからこそ、休みも年間105日、有給休暇もしっかりと取ってもらっています。僕も音楽をやっていたこともあり、いまだにミュージシャンになる夢をあきらめていません。隙あらば音楽をやりたい。だからこそ、自分の「仕事」を大切にしています。

“やることを誰よりもたくさん抱えていて、働く気のある人が、最もたくさんの時間を見出すことになる” Samuel Smiles

という言葉を信じて。

自分に「一番あう仕事」は、あなたの中にあります

自分が得意なこと、無理なくできることは誰にでもあります。それが「適職」を選ぶ際のヒントになります。「今の職業は自分に合わない気がする」「他の職業の方が合う気がする」ということをなんども聞いてきました。そうなるのは適職と天職を分けずに、適職に生きがいや使命感まで求めているからです。「適職」=「自分に向いた仕事」を求める場合には、客観的に自分の「技能」を考える必要があります。なにが得意で、なにが苦手なのか。つまり自分の性質を見極める必要があります。

仕事は実際にやってみないとわかならい部分もありますから、当社ではアルバイトから挑戦するのもOKです。また、仕事を選ぶ上で、人からみて「カッコいい」と思われる仕事に執着していないかも、大切な要素となってきます。たとえば、自分は本当はガテン系の仕事が得意なのに、周囲の人からよく見られるIT業界の方が自慢できる。そんな風に考えて選んでもうまくいきません。

世間体がいい仕事をしていても、自分の性に合っていなければ、ポジティブなエネルギーはわいてこず、仕事でもいい風は吹きません。また、自分では「この仕事が好き」と思い込んでも、本当はただ人気の職業だからついているだけ、という場合もあります。そんなときはいくら努力しても上達しないので、苦しむことが多くなるのです。

そうならないように、まずは自分に正直に、素直に自分と向き合う。そして、周りになんと思われようと、私はこれだけは人に負けない、と思える仕事を「適職」として選んでください。本当の意味で幸せを得られる人は、世間の評価に惑わされず、自分の心の声に正直に生きられる人です。その「適職」が当社になっていただけましたら、この上ない幸いです。

自分にとっての「天職」

自分ができることの中で、人の役に立つこと、それが天職になります。こうきくと「そんな立派なこと、自分にはできない」と思うかもしれません。けれど、難しく考える必要はありません。自己犠牲的な、人から脚光を浴びるようなことだけが天職ではないからです。たとえば、ラーメンを作るのが好きなら、徹底的にラーメンを極めてみるとします。そこで次に「ラーメン屋をやる!」となると、お金を稼ぐ仕事となるので、天職から遠ざかっていきます。

そうではなく、たとえばどこかの場所を借りて、子ども食堂をする。すると、そこで純粋な喜びが生まれるでしょう。これが天職です。ラーメンづくりも天職になるのです。工夫次第で、天職になるわけです。

僕は天職の一環として、売り上げの一部をNPO団体などに寄付しています。寄付総額は6,271,431円です。(2025年6月現在)寄付したところから送られてくるお礼の返信こそが、僕の喜びや生きがいになっていて、それが僕にとっての天職になっています。自分が死んであの世に行ったとき、きっと自慢できることだと信じています(笑)

フェイクばかりの時代だからこそ、リーダーは黄金律を追求せよ

こんなお話があります。白楽天という詩人がお坊さんに「仏法の大意とはずばり何ですか?」と質問しました。するとそのお坊さんはこう答えました。「悪いことをしてはいけない。善いことをしなさい。そして自分の心を清めよ。これが諸仏の教えです」と。すると白楽天は「そんなことは子供でも言いますよ」と言うと、「たとえ子供が言えても、80歳の人ですら実践できません」と答え、白楽天は礼拝して去っていきました。

お坊さんの答えはあまりに当たり前なので、人はなかなか追求しようとしません。しかし、これまでの仕事を通して痛感すること、それは「常に日常が大切」ということです。言動、立居振る舞い、そういうところにすべて人間性が出てくるからです。特に挨拶や返事といった当たり前のようなことが中々できません。このようなことは、小さい頃に親や学校の先生など、大人に叱られながら教わることです。しかし、今の時代、叱れる親や大人がどれだけいるでしょうか。相手に怒って当たることは「感情」ですが、叱るは「理性」がないとできません。本当に理性的に道徳を語れる大人が驚くほどおりません。

世界の億万長者が集まるダボス会議というものがあります。そこに来る人々はリッチを極めた人ばかりです。世界上位8人の総資産が人類のおよそ半分である36億人の総資産と同じになり、とてつもない格差が生まれました。その8人の大半がダボス会議に出席し、第4次産業革命について議論しています。

そんな究極の億万長者の人々は、結局を何を考え何をしだすのか。なんと「良いことをしたい」と思うのです。驚きですね。具体的に何をするのかと言うとNPOやNGOに寄付をしたりするのです。日本では寄付の文化がないとネガティブに言われることがありますが、果たしてそうなのでしょうか。寄付をすることが本当に良いことなのか、なかなか難しい問題です。

突然、ある組織に何億円というお金が振り込まれたらどうなるでしょう。そうなると利権や嫉妬が生まれるのです。せっかく良いことをしているのに、良いことができなくなる。ですから、良いことをしたいというのはある意味利己的な動機であり、結局、うまくいくと思っていたことが悪くなってしまうのです。世の中、自分が思う以上に複雑にできているため、本当に良いことをするのは難しいのです。

最近の政治や県知事、日本のリーダーであっても本当の道徳観が欠落していると思う場面が多々あります。昔から日本人は素晴らしい道徳観を持っているとされてきました。しかし、最近の不祥事をみると、リーダーと道徳観の関係性を考えさせられます。年々、リーダーに道徳観がなくなってきているのか。今まで立派な人はいたけど、悪い部分が明るみに出なかっただけなのか。

レイ・カーツワイルが2045年にはシンギュラリティにより働く必要がなくなる時代がくると提唱しています。ポジティブに考えるとロボットやコンピューターが奴隷のような仕事に代替えされ、自由が増える。ネガティブに考えれば失業を意味します。仕事と生活の両方を充実させようとするワークライフバランスが始まり、今まで以上に「人生とは?」「幸せとは?」ということが問われる時代になるわけです。

そのような世界になろうとしている現在においても、成功者と呼ばれている人々は良いことをしようと考えています。彼らは成功し、ボランティア活動などを通して莫大な資金共有などをしていますが、まだまだ心に満たされないものがあるのです。つまり、彼らは自分たちの生き方、人生観によってしても満足に到達できていないと考えているのです。

歴史上、最も栄華を極めた豊富秀吉は「「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と言いました。当時はそのような人しかある種、そういう達観した感覚にはなれませんでした。貧しい一般庶民には食べることに精一杯なため、そこまでの境地にはなれなかったのです。

これからの余裕のある時代の中で「本当にこのような生き方で良いのか」ということが問われた時、本質的な意味で、「これからの生き方とはなんなのか」ということでの哲学や宗教的なことが問われてきます。しかし哲学や宗教的なことは国や人によって大きく異なります。

近年において、日本はそもそも無宗教な国です。だとしたらそれに代わる、人生における黄金律、つまり歴史、文化、宗教、宗派を超えた、人が人として幸せに生きて行くための道筋として道徳というものが大切になってきます。道徳とは堅苦しく型にはまったものではなく、「人が人として幸せに生きて行くための考え方」のヒントのようなもの。そのようなことを日常の中で頭の中ではわかっていても、心の中で得心できるのかどうかが問われる時代です。

あのスティーブ・ジョブズでも、亡くなる数ヶ月前にプライベートで京都の碧雲荘に来て「自分は事業で成功したが、大事なものを忘れていた」と言っています。どの時代に生きる人にとっても、人間として、重要な命題です。

毎日毎日、一日が一生と思い、毎日生まれ変わったつもりで今日よりは明日、明日より明後日と、どんどん気持ちが高まっていく情熱をもって、同じことを同じように毎日繰り返していると、不思議となにかわかって来るものがあります。逃げたくても逃げられない経営者の特権とでもいいましょうか。きちんとした上下関係ときちんとした決まり中で生活していると、やがて見えてくるものがある。ということが、明文化させていないけれども「仕事」という中にはあります。

仕事での教訓が教訓で終わってしまったら単なる情報にすぎません。カレーの味を説明するのに、どれだけ必死に説明しても、その味はわかりません。それと同じで、飲む、体験する、実践する。それが教訓を心の底から味わうための手段です。

「真実の泉の水を口にふくむが、決して飲もうとはしない」体験、実践がなければ机上の空論です。「仕事」の中でも、自分でやってみることが非常に大切です。

よく、経験が浅い社員ほど責任者に文句を言うものです。かつて当社でも、会社のやり方に納得できず、「友達と会社を設立するからこんな会社辞めてやる」と散々文句を言った挙句、同僚を引き抜いてまで辞めていった人がいました。

2年半後、「思ったようにはいかず、友達の会社を辞めました。もう一度会社に戻らせてほしい。自分はなにもわかっていませんでした」と、深夜に連絡がきました。人は、実際に自分がその責任を担ってはじめて、これまでの言動を反省するようになるものです。

現代のリーダーは道徳観は必要ないのか

海外の映画の中で、「リーダーはアイディアとやる気があればそれでいいんだ」というシーンを見たことがあります。果たし本当にそうでしょうか。
某車メーカー会長によると「あと1年以内に完全運転ができるようになる」とのこと。僕はそれを見たとき思わず首をかしげました。

たとえば、前から対向車がやって来る。突然、横からトラックが突っ込んでくる。まっすぐいったら正面衝突。右に曲がったら対向車に巻き込まれる。左を見たら集団登校の小学生が歩いている。

そういう時、AIはどういう判断をするのか。そういう時こそ、人間の価値判断が大切になってくると思うのです。

ダライ・ラマの講演に縁あっていけた際、「みなさんの質問になんでも答えます」という時間がありました。お坊さんは命を大切にしなさいというべきですよね。けれど、レイプをされて身ごもった子供でも命を大切にしろと言うのは果たして正義なのでしょうか。それはかわいそうだから堕胎してもいいのか。ではどのような基準で堕胎しても良いのか悪いのか。

このような問題は現世を生きるうえで誰にでも起こりうる問題です。最新技術は誰も経験したことのない技術で、当然このような倫理問題は起こって来るわけです。だからこそ、これからの時代、リーダーはますます倫理観や道徳観といったものが求められてくるわけです。

現在、教育現場では道徳は必修科目となっています。僕自身、道徳は大切だと思うのですが、果たして教師であってもそのようなことを教えられるのでしょうか。

現代人の阻害要因はとにかく「知性に頼っている点」です。つまり、頭だけで理解していて、心の深い部分で理解できていない。ただの情報としての知識だけで、本当に習得できていないのです。東大出身の政治家たちが、陰でとんでもなく非常識なことを当たり前のようにしていつも問題になっています。つまり、頭が良いだけの心バカということです。

あのハーバード大学が人間の幸せについて75年も研究、なんと驚きの結果が…

 「人間の幸せとはなにか」についてハーバード大学が75年にわたって研究しました。その結果はなんと、お金やIQではなく「人間関係」で幸不幸が決まるのです。人間関係の中には道徳的な部分を含んでいます。平たく言えば人と人との付き合い方だからマナーがあります。小学校で道徳の授業が正式な教科としてありますが、以前も道徳という授業はありましたが、教え方や教科書はありませんでした。その時間をどのように活用するかは先生次第です。

昔は清く美しく貧しくという中でお互いが精神的にも物質的にも我慢してきたということで成り立っていました。しかし、もはや現代では通用しません。清く美しく豊かに。ここでいう「豊かさ」とは精神的な面と物質的な面の両面でした。今までの学校では指導書と言われるものがあり、清貧思想に準拠した指導を行っていました。しかし、今はそのようなものはありません。たとえば「いじめはいけません。だからやめましょう」と頭だけの理解を指導して、実際にいじめはなくなっているでしょうか。

これからはいじめをする立場、いじめられる立場、教師の立場、親の立場、傍観する立場から議論する必要があります。これが正解ということは言えませんが、上司・部下ともに議論をしながら道徳的な本質をつかんでいくというプロセスに重きを置く。つまり、誰かに教えられて、知識として学ぶということではなくて、自分が主体的になって道徳的な価値観を学んでいくことが本当だと思うのです。ここで、リーダーの力量が問われてきます。

では、道徳はルールさえ守っていればそれでよいのでしょうか。たとえば、僕が大学生の時、出欠を取る際はパスワードが表示され、それで出席をとることがありました。代返ができないので出席率は上がります。これは正直者がバカをみないようにしているわけです。

果たして、そのような中で育った学生はこれから先やっていけるのでしょうか。なんでも持ち込みOKのフランス語の試験で、フランス人を持ってきた人がいました。ただ単にルールさえ守っていればいいと思うような人からは、独創的なアイディアは生まれません。道徳とはそういうものではないわけです。

昔は一休さんのようなお坊さんが人々に道徳を教えていました。現在は葬式仏教と呼ばれるように、そんなことは稀です。

では、どうやったら道徳を教えていけるのか。最終的には親の教育です。親が背中で教えていく。「子供は言われたことはしない。見たことをする」と言われますが、会社も同じです。いくらいいことを言っていても、組織の上司やトップのやっていることがダメではダメなわけです。だからこそ、リーダーには道徳といった「人としてどうあるべきか」という黄金律を追求する必要があるのです。

金儲けや目標を達成することはエキサイティングです。しかし、それは幸せとは関係ありません。エキサイティングの裏側は不安。達成できればエキサイティング、失敗すれば不安のみです。このループからでは物的にも精神的にも幸せにはなれません。エキサイティングはfan=オモシロイ。本当の「幸せ」はJOY。そういうことが考えられる柔軟性がないとジェットコースターになってしまいます。いっときだけ上昇気流にのっても、すぐに堕落してしまうのです。

学校教育の中で道徳の授業があるのは日本と韓国だけです。韓国は日本の真似をして作りました。他国にはなく、代わりのものは宗教です。それがない場合は公民や市民教育といったもので、それらは社会生活を送る上での人と人との関係に関するものだったりします。日本の道徳のように「より良く生きるために」という道徳的なものはありません。宗教の根底としての「人としてどうあるべきか」という本質論的な部分においては、宗教を超えています。それぞれがそれぞれの価値観の中で教えていた部分はもちろんあります。

これからさらにグローバル化していく社会では、異なった価値観同士がぶつかることによって戦争紛争対立が起きてきます。ダボス会議でもそのことがテーマとなっています。世界のどこに行っても普遍的に通用する倫理や道徳をもっているのは日本だけです。しかし、日本人はあまり意識していません。エジプトではみんなで学校で掃除をしたり、みんなで給食を食べる。このようなことは他国ではありえません。労働者がやるようなことをうちの子供にやらすなというような、身分差別的なことがあるからです。

しかしエジプトでは、子供たちにそのようなことをさせることによって、整理整頓や清潔さ、人とコミュニケーションをとること自体が自立につながるということで高く評価されています。日本の初等中等教育は学校空間そのものが道徳的な空間になっているというのが外国の視点なのです。

当社では、環境整備というものを行っています。 環境整備はただの掃除ではありません。会社の文化としていきます。掃除を通して職場で働く人同士が心を通わせ、仕事のやり方や考え方に気づく習慣が身に付きます。それは禅寺のお坊さんたちが一丸となって掃除するのと似ています。仕事をやりやすくする「環境」を「整」えて、「備」えるのが、「環境整備」の目的です。

掃除と「環境整備」は似て非なりです。掃除は始業前に行うのでボランティア、やり方は自由です。「環境整備」はお給料をもらってやるので、決められたやり方で実行します。

ものをピカピカにすれば、心も自然とピカピカになります。キーボードの掃除ひとつとっても、そこまでするのかと徹底して行います。汚い場所にいるのと、きれいな場所にいるのとでは、人の心が変わります。荒れた学校に花を植える習慣を作るだけで生徒たちの破壊行為がなくなるほど、心が変わるのです。その心がお客様のサービスにつながります。そこまでするのかと、お客様の期待以上の価値提供につながるのです。

さきほどの自分が主体的になって道徳的な価値観を学んでいくことで、普遍的な人と人としての人間関係の構築ができるのではないかと思うのです。ハーバード大学の研究では9割が人間関係によってその人の幸福感が影響されるとのこと。自分勝手に振る舞えば周りからバッシングされる。結果的に、自分本位では幸せになれないし、それは幸せな生き方ではない。

本来の日本の持っている精神性は自己中心的ではなくて世のため人のために働くことにより、自分の存在が理解され、それに対して幸福感を感じる。社会に貢献する。それは日本型のおうみ商人の三方良し的な部分があります。こういう部分を日本が世界に対して発信をしていく。同時にそのような道徳的な部分においては日本が模範となるべきです。

しかし、果たして日本は現在それができているかというと、できていません。本来、親が教えるべきことかもしれないのですが、できない。なぜなら、戦後教育の中で親の世代がそのような教育をなされてきていないからです。教育そのものが母親が一人で行う孤育になってきました。

社会全体で教育をするということは決して特定の国家主義的なものに向かうということではなく、一人ひとりのアイデンティティーの中での幸せの場を提供することになるのです。それをどのように生かすかは本人の意思や価値判断。そういう場を色々な形で社会全体で会社の中でやる。その中で一つの重要な要素として道徳を位置づけることがこれからは大切になってくるのです。

日本の精神性というのは道の精神。道の精神とは目標を達成して満足するのではなく、一生涯の鍛錬です。そのような価値観は他国にはなかなかありません。だからこそ誇るべきものであり、世界に発信していくものであると思うのです。

自利利他円満、自分を鍛えることと己を忘れて他を利する。強さだけでもダメ。目的至上主義でもダメ。みんなのことを考えすぎるのもダメ。あんばいをみつけ、最後は人のためが自分のためになる、という日常を過ごそうという境地に自分がなってきた。そういう具合に回るシステムがあるのではないか。

これまでの仕事を通して会得したこと。私たちの心の中にはプラス的なことを考える針とマイナス的なことを考える針が常に動いています。嫌なことがあるとマイナスに針が動く。ふり幅が小さければいいのですが、ずっと自己憐憫でいるとマイナスな方向へどんどん動いていく。それが極まると恨み憎しみになっていく。これは不幸な人の生き方です。

心の針が少しでもプラスの方へ向くように、色々なことが起きてもプラスの方へ向いている。念ずれば花開く。今の心がどちらに振れているかによって自分の次の瞬間が変わり、明日が変わり、未来が変わって行く。はじめは運が悪いなと思っていた人生ばかりでした。本当に失敗ばかり。

しかし心の針がプラスに振れるようになってから良いリーダーシップがきれるようになりました。すべてが回りまわって色々な状況に置かれても、リーダーは心の針が一瞬たりともマイナスに振れないように心がけることが大切です。運は今の心に運ばれていくように感じるからです。

日本は農耕民族、西洋は狩猟民族であるから若くて優れたリーダーシップを持った人が集団を引っ張るという意味で、リーダーシップが求められていました。しかし、これからの第4時産業革命、2045年のシンギュラリティ(AIが人間の知能を超える転換点、またはその結果として起こる急激な技術革新を指す言葉)の時代の中で、ヨーロッパ型リーダーシップではない時代に入っています。

天皇陛下のように「権力」ではなく、寄り添うことによって癒しの場を提供する。日本の和の精神につながるような、存在そのものが他者にとってリーダー足りうる存在になる。上下関係、他者関係において、その人ひとりひとりの存在そのものが、共生の中で中心になる。トップリーダー的な人がリーダーシップを持つのではなく、一人一人が主体性をもつこと。主体性を持つためには一人一人が志を持って、自分が他者のためになにができるか考える。

幸福の法則というものを考えると、自己中心から入って自立し、世の中のためになにかをやるというのでは、幸せになれなかったわけです。世の中のために、利他的な思いで、目の前の人、社会のために自分がどのように役にたてるのか。このような動機付けのもとでは「自分が幸せになれる」と考えると、幸せの法則はあるのではないか。

冷暖自知

情報化社会だから、情報を得るためにみんな頑張ります。気温の25度、触った25度、25度の水をかぶったときの冷たさは全然違います。25度の情報だけではあまり役にたちません。自分で実感しないとリアリティはありません。なにごとも情報を得るだけでは単なる知識の収集にすぎません。とにかく自分で熱いか冷たいか触ってみる。

そんなわけで当社では、座学ももちろん行いますが、OJT(現場主義)に重きを置いています。現場で挑戦してみて、失敗したらそこから学ぶ。これが基本です。

当社では変えてはいけないものがあります。それは理念やルールです。しかし、同時に自分自身は常にクリエイトしていかないといけません。川の水は、流れが止まった瞬間から腐敗していきます。変にクリエイトしてしまうと、的を外してしまう。

同じことを毎日同じように繰り返していくとやがて見えてくるものがあります。これは知識や頭で理解するものではなく、体験をしながらだんだんと腑に落ちてくるものです。まずは形から入って、心にいたる。

目上の人に対しては口答えをしない、敬意を払う。イラッとしたりムッとしたりすることがあるかもしれませんが、そのような経験も自分を成長させるのです。そのようなことを忍耐していると、人間的に大きくなります。自分の感情をいつまでも出す人は子供です。

世界には素晴らしい教訓がたくさんあります。しかし、知識としてあるだけでは意味がありません。経験を通して「仕事」の本質を見出していくことが重要であり、そうでなければ本物(プロ)にはなれません。

人間、心がある限り生涯にわたり悩み続けることなります。昔は死後の世界がきになり、現代は「今をどのように生きるか」に興味があるわけです。今をどのように生きるかというところにフォーカスしないといけないのに、相変わらず自分のことばかり考えて悩んでしまう。

悩んでやらないから思うようにいかない。悩んでも悩まなくても結果は同じです。やらないがために不都合が生じてきました。なので、当社ではとにかく「やってみること」に重点をおき、失敗しようと成功しようと、やらなかった場合には評価されない仕組みになっています。

向上向下でなければならない

現代に生きる人はみな、仕事を通して自身を向上させなければなりません。そこでおわったら単なる自己満足です。自分が仕事を通して得たもの、教訓を世のため人のために役立てて初めて評価され、価値が生まれるのです。

なので、当社では自分だけできても評価されません。部下ができるようになって初めて評価される仕組みになっています。共に学び、共に教え、共に成長しなければ、本当ではないのです。

志を高くもって絶対に諦めない、情熱を失わない。そしてもう一つ、家族。

当社の強みは少人数制であること。少人数だからこそ家族のような絆でいられます。家族のような存在はものすごく大切で、多くはいりません。たった1人でも自分のことを心から理解してくれている人がいるというだけで、どんなに苦しい辛い立場や境遇に置かれたとしても、それがつっかえ棒となって自分を支えてくれる。

このことが仕事をポジティブに行える理由であると心から信じています。このような小さな日々の積み重ねの中で志が成熟していって、強い思い、強い人間になっていけると信じています。だからこそ、僕と価値観や考え方の合う人、この指とまれ!

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